わが国では地質的に岩塩などは産出せず、塩つくりに有利な「太陽熱」・「風力」などの気象条件にも恵まれていません。そこで、先人たちは海水から塩を作る製法に工夫を凝らしました。古くは縄文・弥生時代から「直煮製塩(じきにせいえん)」、藻に海水を付着させる製法の「藻塩焼」を経て、海水を浜に揚げて天日で乾燥させる「揚浜(あげはま)式」から、さらに潮の干満を利用して海水を浜に揚げる「入浜(いりはま)式」へと、その技術を高めてきました。
また、1953~1972(昭和28~47)年まで流下式枝条架併用塩田(りゅうかしきしじょうかへいようえんでん)という製法が導入されました。
千葉県幕張の海岸
写真は2003年3月、当時の伯方塩業社長の故・丸本執正が千葉県幕張の海岸で発見した、自然にできた天日塩の写真です。
「宿泊先近くの海岸は、遠浅で美しい砂浜でした。その細かい砂の浜を歩いていると、砂浜の表面に白い膜のようなものを見つけました。それは、ずうっと波打ち際に平行して断続的に続いていました。舐めてみると塩辛く、明らかに薄い板状になった塩の結晶でした。」(丸本談)
直煮(じきに)製塩
伯方小学校の児童が体験学習でつくった製塩土器
当社工場のある伯方島では弥生時代の製塩土器が出土されています。その形は中の海水が沸騰しても外側にこぼれないように口縁(蓋がついていない器の一番上 にあたる縁の部分の周辺)を内側に丸めてつくられています。底の形も熱効率のよい形になっていますが、煮詰める途中で土器が割れることもあったようで塩つくりは簡単ではなかったようです。
藻塩(もしお)焼製塩(直煮製塩を効率よくしたもの)
ホンダワラなどの海藻を積み重ね、海水を上からかけては乾かし、焼いた後に釜に入れ、水を加えて、その上澄みを煮詰めて作る方法です。乾燥しにくく、燃えにくい海藻を扱うため、少しの量しか採れませんでした。
揚浜(あげはま)式塩田製塩
室町中期より、敷き詰めた砂の上に海水を運搬し、天日で乾燥させる製法が生まれました。
塩田の登場です。
塩田に、人力で大量の海水を運搬します。撒いた海水の水分が蒸発して、塩が付着した砂をあつめて海水の洗いを繰り返して、濃い塩水を作って煮詰めます。
入浜(いりはま)式塩田製塩
潮掛け(散潮)
浜引き
潮の干満を利用して海水を塩田に取り込む方法です。揚浜式では重労働だった海水の運搬の必要がなくなりました。主に地形に恵まれている瀬戸内海沿岸で発達しました。
瀬戸内海沿岸は全国的にも晴天日数が多いことから日本でも有数の塩田地帯となりました。江戸中期の元禄の頃には、日本の製塩の50%を生産するようになり江戸末期には80~90%を占めるまでになったといわれ います。
しかし、濃い塩水(かん水)を採る作業(採かん)はまだまだ重労働であり、気候に左右されるものでした。
(写真2点とも湯本博氏撮影)
流下式枝条架併用塩田製塩(流下式並塩)
〈枝条架〉
流下式枝条架併用塩田製塩(流下式並塩)は、1953~1972(昭和28~47)年の間、主な製塩法となりました。
立体的な枝条架とゆるい傾斜の流下盤を利用しました。
枝条架とは、高さ5~6メートル、幅8~10メートル、長さ100メートルほどの架台に竹の枝を取り付けた写真のような装置です。流下盤で濃縮させた海水を、ポンプで最上段から枝に滴下させて、さらに濃縮させます。それまでの人力による重労働が減り、太陽熱と風での乾燥が主な製法です。
この製法はそれまでの入浜式塩田よりも数倍効率的なものでした。この塩田で採れた塩はにがりが塩全体の1~2%前後で、味もよく、食用に適した素晴らしい塩でした。
1971(昭和46年)塩業近代化臨時措置法によって、これまで親しまれてきた塩田塩がなくなり、NaCl 99%以上のイオン塩のみになってしまうおそれがありました。
「この塩田塩を残してほしい。」 塩田塩を残したいという消費者の訴えが、その後の塩田塩存続運動へとつながっていったのです。