わかりすぎ日本近代史
GHQの占領政策
1945年(昭和20年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏しました。
無条件降伏と言いましても武装解除を行ったと言うだけで、講和条約が締結された訳ではありませんので厳密に言えば終戦ではなく停戦です。
日本が本当に終戦を迎えるのは、サンフランシスコ講和条約が締結された1952年(昭和27年)4月の事です。
戦艦「ミズーリ」艦上にて
この星条旗はペリーが浦賀へ来た時に黒船に掲げていた星条旗である。
日本は昭和20年8月15日から約7年近くもの間アメリカをはじめ連合国(主にアメリカが代表となります)の占領下に置かれ、様々な政策を強制的に強いられました。
つまり連合国側が言う「無条件降伏」とは、連合国側の出す条件を日本が条件を出さずにすべて飲めと言う意味であり、日本側からすれば無条件降伏ではなく有条件降伏をした事になるのです。
連合国側の代表者であるダグラス・マッカーサーという人物は、戦争中アメリカ陸軍総指令官としてフィリピンでの戦いで一度日本軍に敗退し、日本を相当憎んでいました。
マッカーサーは連合国を代表して、1945年(昭和20年)8月30日に日本陸軍厚木航空基地へ愛機「バターン号」でやって来ました。
その第一声は 「メルボルンから日本までの道のりはとてつもなく長く険しい道であった」 と、フィリピンからオーストラリアへ避難し、そしてフィリピンを取り戻した後に日本の敗戦によりやっと東京へたどり着いた苦労を語っています。
その後マッカーサーは厚木から横浜へ向け移動します。
移動中、沿道にはマッカーサーに対し敬意を示す為に彼の車に背を向けて立つ日本兵がたくさんいました。
日本兵達は完全武装の2個師団でしたが、誰一人攻撃もせずマッカーサーに敬意を表し続けました。
横浜に着いたマッカーサーはそこで一夜を過ごし東京へ移動、9月17日に東京第一生命ビルにGHQ本部事務所を構えて本格的に日本の占領政策へと乗り出します。
このページでは、連合国総指令官ダグラス・マッカーサーをはじめ連合国軍総指令部(GHQ)が、敗戦国日本に対し突き付けた様々な政策をご紹介していきます。
まず、アメリカを中心とする連合国軍総指令部(GHQ)は、日本の弱体化、民主化を図る為に様々な政策を行います。
日本陸海軍は共に解散し、軍需産業はすべて停止、一切の軍事力を放棄させ治安維持法や特別高等警察なども廃止させ軍国主義をすべてにおいて廃止させ民主化を進めていきました。
戦時中に利益を得た財閥はすべて解体され、大規模地主から国が土地を強制的に買い上げ、それを小作人に安く売り渡す農地改革が行われ、これによりたくさんの自作農が誕生しました。
つまりこれは、地主と百姓の縦社会を破壊し横一列の社会にする事で、戦争遂行に有利な縦社会の命令系統を崩壊させる事が目的でした。
皇室の財産はことごとく接収し皇族の縮小をはかり、日本人の宗教自体を禁止し、天皇自ら人間宣言させる事により現在の日本国憲法にもある政教分離を実現させ、これにより帝国主義を廃止させ天皇が政治に携わる事を禁止しました。
これを神道指令といい、これから先の日本に対して信教の自由の確立と軍国主義の排除、そしてなにより国家神道を廃止することが目的でした。
この事により現人神(あらひとかみ)である天皇に人間宣言をさせ、天皇を神ではなく日本の象徴と位置づけ、
「日本は神州(神の国)であるがゆえ、どんな戦争にも勝てる」
という考えを破壊しました。
また政教分離により、これまで政府が管理していた日本中の神社は解散するか、一宗教法人になるか二つに一つの選択を迫られます。
短期間のうちに決断を迫られた神社側は、すべての神社を政府管轄より切り離し、生き残る為にやむを得ず宗教法人として歩みはじめます。
そして皇室の縮小に伴い皇族から切り離された久邇宮(くにのみや)家が久邇(くに)氏と名前を変え「宗教法人神社庁」の代表として全国の神社(一部を除く)を運営していく事になります。
また靖国神社も同じ理由で宗教法人となりました。
靖国神社に至っては、当時GHQ内部で二度と日本人が「靖国神社へ祀られる事を名誉とする命懸けの戦い」をしないように焼き打ちしようとする意見が多数でましたが、代表者であるマッカーサーはその事に同意見ではあったものの、イエズス会のブルーノ・ビッター神父に相談します。
ビッター神父の回答は
「いかなる国や民族にも戦没者を祀る権利はあり、それをいかなる外国人が禁止する事はできない。」
とし、GHQは靖国神社焼き打ちを中止しています。
選挙法は改正され、選挙権はそれまでの「25歳以上の男子」から「20歳以上の男女」となり、初めて女子の選挙権が認められました。
その他、労働組合法が制定され、労働組合を作る事が認められたり、教育勅語(きょういくちょくご)が廃止され、教育基本法が制定されました。
これにより軍国主義教育は廃止され、民主主義教育が実施されるようになりました。
「大日本帝国憲法」は廃止され、新しい憲法をつくるにあたり日本側がある程度の修正案を認められていましたが、日本側の案はすぐに却下されました。
この彼らの決断の早さは尋常ではなく、通常であれば日本語を英語に訳すだけでも何日もかかるはずなのですが、GHQ側は即座に却下しています。
これは 「我々は日本側にもちゃんと作らせましたよ」 という事を世界にアピールするための演出のようなものでした。
この演出をする事により、我々は国際法で決められているよほどの事がない限り、戦勝国が敗戦国の法律を変えてはならないという決まりを守ったと言いたかったのです。
最終的にはGHQ(アメリカ)自らがそのほとんどを作成し、それをほんの少しだけ日本側が修正する形で完成しました。
しかもアメリカは日本がこれから何十年も使っていかなければならない大切な憲法を、わずか6日で作りあげたのです。
したがって我々が知る戦後の「日本国憲法」は、アメリカが中心となり自分達の都合がよくなるように作った憲法なのです。
ちなみに、自国の憲法を外国人がつくり公布している国は先進国では日本だけであり、独立後現在に至るまで独自の憲法を作り直さなかった事は、戦後日本人の大きなの失敗の一つです。
この日本国憲法は「天皇主権」ではなく「国民主権」となり、「基本的人権尊重」「平和主義」が盛り込まれ、「兵役の義務」がなくなり「勤労の義務」が明記されています。
これらの政策は日本と実際に戦い苦戦したアメリカが、日本が再び世界の脅威とならないように考えると同時に、中国大陸におけるアジア市場拡大の為、アメリカの都合のよい日本への早期復興を目指したものでした。
ところでアメリカの本音としては天皇家を解体したかったのですが、なぜ皇族の縮小だけに留まり天皇家そのものを解体しなかったのでしょうか。
それは、日本人の天皇に対する信仰心を利用したかったのです。
わかりやすく言えば、天皇が国民に
「頑張って復興して下さい」
と言っただけで日本人は懸命に働き、荒れ果てた地を素早く建て直せると考えたからでした。
復興の為に天皇は使える存在だったのです。
(昭和22年・広島)
それともう一つ大きな理由があります。
アメリカは自らが先頭に立ち日本軍と戦い、大きな打撃を受けました。
戦争末期、肉弾として祖国や天皇の為に体当たり攻撃までした特攻隊をはじめ日本軍兵士や、敵に捕まるくらいならと自決を選んだ日本国民などを間近で見たアメリカは、天皇家を解体する事により日本国民は死を覚悟して占領軍に対し反乱を起こし、最終的には日本国民すべてが死ぬ事になりかねず、とても日本統治どころではなくなる、と考えたからでした。
それほどまで日本民族を残そうとしたのは、日本の工業技術の素晴らしさと日本精神の奥深さを認めていたからなのです。
そしてその工業技術を自分達の為に利用したかったのです。
しかしそれは、技術者等をアメリカ本国へ連れて行き、思い存分その頭脳と技術力を利用したかっただけで、その後の日本工業の発展を考えていた訳ではありませんでした。
アメリカは日本の重工業を全般的に廃止させ、二度と日本が脅威とならないようにと考えました。
その後の日本では、せいぜい自転車を作りアジア諸国へ輸出するくらいだと誰もが思っていました。
しかしこれは、この後起こる大事件により覆され、日本の工業は突如大発展する事となります。
マッカーサーは戦時中あれほどむごい戦いを自ら行った日本人に対し、凄まじい恐怖感がありました。
何もかも無くなってしまった日本人にとって「天皇が存在する」事は、唯一救われる事だったのです。
そして、日本人は天皇の存在を残してもらった事により頑張れたのです。
この戦後政策において天皇の存在が守られた事、そしてなにより日本民族が存在するのは、あの大戦時に祖国日本の未来を思いながら命を捧げてくださった人々の最大の功績だったと言えます。
日本の戦争責任に対しては、極東国際軍事裁判(東京裁判)により日本側の各責任者を処罰しています。
民主化を進める一方でこの裁判は民主的には行われませんでした。
GHQはこの裁判と共に日本人に「日本はとても悪い事をした」という事をしきりに宣伝し、マスコミの報道にも検閲を行い日本の悪かった事だけ(事実と異なる事を含め)を宣伝し続け、日本人を確実に洗脳していきました。
日本政府が命名した今回の戦争の名称「大東亜戦争」は「太平洋戦争」へと名前を変更させ、「八紘一宇」など軍国主義時代に使用した用語の使用を禁止し、過激な国家主義を連想すると思われるものすべてを禁止しました。
日本国内で販売されている書籍や教科書にはすべて検閲を行い、大東亜戦争を含むそれ以前の事に対して「正義の戦争」や「愛国、尊皇」など日本を正しいと思わせる表現や表示はすべて「墨塗り」され、あまりに日本を美化正当化する書籍などは販売禁止、回収し焼却されました。
新聞やラジオなどのマスコミには、ことごとく日本は悪い戦争をしたと朝から晩まで「日本の悪」を宣伝させ、日本人達を洗脳しすべての日本人から愛国心を消し去る事に全力を注ぎました。
そしてその強力な洗脳は現在も取り除かれてはいません。
その結果、我が国だけでなく一部の近隣諸国までもが現在もその影響を受けているのです。
焦土と化した日本には当然食べ物は無く、アメリカは大量に小麦粉を売り付けました。
これは、一見すると
「アメリカは敗戦後の食糧難に苦しむ日本を助けてくれた」
と勘違いしそうな事(実際に当時子供だった人々は今もそう思っている人が多い)ですが、真実は違います。
真相は、当時アメリカは戦争による出費がかさみ破綻寸前の大不況であり、国内では小麦粉すら売れずに余っていました。
農家も小麦が売れない事で小麦栽培を辞めつつあったところ、食べ物に困っている米を主食とする日本人に小麦粉を売り付ける事でパンの味を覚えさせ、今後永遠に小麦粉を大量に買わせようとしたのです。
つまり、日本は食糧難であり、この政策により小さな子供はパンをたくさん食べる事になります。
するとその子供達は大人になってもパンを好み、その人々が結婚し子供を作ると、またその子供達にパンを食べさせる。
そうすることにより日本はずっと小麦粉を買う事になります。
ようするにアメリカは50年先100年先を見込んで米ではなく小麦粉を大量に日本に売り付けたという事なのです。
そして現在の日本はその策略に見事に、はまってしまったと言えます。
このようにして戦争に敗れた日本は現在まで何十年もの間、敗戦後遺症に悩まされる事となります。