日本食の歴史

はじめに――アジアのなかの日本食

日本食といえば、誰もが米を思い浮かべるだろう。確かに朝鮮半島でも中国でも、あるいは東南アジアの国々でも、米が食べられているが、とりわけ日本では米が重要な位置を占めてきた。そして日本でおかずといえば、今でこそ肉の消費量は増えたが、やはり魚のイメージが強い。こうした米と魚は、基本的には東南アジア・東アジアというモンスーンアジアの大きな特徴で、高温多湿なことから稲作に適するとともに、これには大量の水が必要で、そこには魚が棲むことから、米と魚の文化が生まれた。

これに対して、西アジア・中央アジアおよびヨーロッパなどでは、寒冷乾燥な気候であることから、麦作が盛んで小麦が主な食料となっている。これには牧畜が伴い、乳を出す牛や羊などが飼われることから、肉と乳が組み合わされた食生活が営まれた。米は脱穀して精米すれば、そのまま粒で食べることが出来るが、小麦は外皮が剥がれにくく粉食とするほかないので、パンやナンあるいは麺となる。これらを食事のメインとしながら、牧畜による肉と乳製品を利用するため、麦と肉の文化が展開をみた。

そして米と魚の文化では、魚を発酵させた魚醤や大豆を用いた味噌・醤油などの穀醤が調味料となり、麦と肉の文化においては、肉や骨を煮込んだスープとクリーム・バター・チーズなどが味付けの主体となっている。ただ中国大陸では、北部には麦と肉の文化が広がるが、南部では米と魚の文化が基本であった。このため日本の食文化は、中国大陸南部の延長線上に位置するものと見なすことができる。

こうして東南アジア・東アジアの稲作地帯では、米と魚が食文化の中心となったが、これに動物性タンパクとして、ブタとニワトリが加わった。いずれも牧畜の動物のように、乳を出すメリットはないが、ニワトリは卵を産むため広く利用された。ニワトリは中国南部・ラオス北部の山岳地帯で家畜化が始まったと考えられるが、かなり早くからユーラシア大陸全般に広がり、西の麦文化の世界へも広まった。

またイノシシの家畜化によるブタの飼育もアジアでのことと思われるが、ブタは放っておいても回りの草や廃棄食料などを食べて育つため、ニワトリとともに稲作労働の傍らで簡単に飼うことができる。これらは魚とともに、米の飯の重要な菜となったが、日本では、かなり特殊な事情が生まれた。おそらく稲作の伝来とともに、日本でもブタの飼育が行われた形跡が認められるが、このブタが途中から欠落していった点が注目される。その意味で、日本の米文化は、アジアのなかではかなり特異なものとなったといえよう。

その理由や事情については、後に触れることとするが、また一方で、今日の日本の領域全てで、稲作が行われていたわけではない。つまり日本列島全体を、米文化が覆ったわけではなく、北海道と沖縄には稲作が及びにくく、むしろ古代以降の日本が排除してきた肉文化が豊かに発達した地域であった。この南北二つの地域は、すでに古代から密接な関係にあったにも関わらず、日本に組み入れられるのは明治すなわち近代以降のことであった。

本章では、こうした歴史的事情を踏まえた上で、米という私たちに非常に親しみの深い食べ物を中心に、日本における食の歴史を眺めていくこととしたい。それゆえ、米以外の食物にも注意を払いながら、稲作以前および南北の問題についても、充分に眼を向けつつ、歴史のなかの日本食の全体像を見つめ直していきたいと思う。

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食乱れる現代。今こそ、精進料理の教えから食への感謝を学ぶべき時です。

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日本仏教と精進料理の発展

日本では仏教伝来以前にも、神道などの影響により、肉や魚を食べることを避けて身と心を清らかにするという「潔斎(けっさい)」の習慣が一部階級の間に定着していました。
そのため6世紀頃に仏教が伝来し、中国で成立した精進料理の思想がわが国に伝わった際、潔斎の思想が土壌にあったため、精進料理も素直に受け入れられたといわれます。

○初期日本仏教と精進料理
わが国では、聖徳太子が仏教を治国のために積極的に取り入れるなど、国を挙げて仏教を保護し、政策の基盤とする世が続きました。仏教はわが国にすっかり根を下ろし、仏教文化である「飛鳥文化」が花開きました。
675年、天武天皇の勅令によって僧侶の肉食が禁止され、国の定めの上からも、僧侶の食事内容が限定されることとなりました。このころはまだ調理法は発 達しておらず、生、あるいはゆでた野菜に、酢、塩、醤(ひしお・しょう油の原型)などをかけただけの簡単な調理で食べていました。


平安時代中期の「枕草子」には、「そうじものいとあしき」と記されています。「そうじもの」は、「精進もの」のことで、このころにはすでに、僧侶の食べ る食事を精進料理と呼んでいたことが推測されます。「いとあしき」は「すごくまずい」という意味ですから、精進料理はおいしくない粗末な料理という風に思 われていたようです。

奈良・平安時代には、比叡山に天台宗が、高野山に真言宗がおこり、民衆を教化しました。
このころから、寺院の正式行事の際に精進料理が出されるようになり、その形式や作法の原型が生まれました。当時の精進料理献立も今に伝えられています。
また、それまでは日本の食事習慣は通常朝飯と夕飯の一日二食でしたが、この時代に中国の影響を受けて、寺院や貴族たちの間で一日三食の習慣がはじまり、やがて一般社会にも浸透したといわれます。

 

○鎌倉新仏教と精進料理の発展
鎌倉時代になると、戦乱や天変地異で世が乱れ、民衆は苦しみ、「末法思想(お釈迦様の死後2000年が経つと仏教が衰え世が乱れるという考え方)」が流 行しました。こうした民衆の期待に応えるかのようにして、浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、日蓮宗、曹洞宗などの新しい宗派が生まれました。
それまでの仏教は、いわば貴族や僧侶などが中心に信仰しておりましたが、これらの新しい宗派は、仏教本来の教えに立ち返って民衆の苦しみを救うため、今 まで以上に民衆にわかりやすい方法で布教を行いました。それらの教えとともに、仏教文化が広く一般民衆に浸透した時期といえます。
その結果精進料理も、各宗派の教えと共に全国に広がり、一般の家庭でも食べられるようになりました。

 

・浄土真宗と精進日
浄土真宗の開祖、親鸞上人は、権力に結びついて腐敗した旧仏教を改革して民衆に広めるため、自らの門下のものには、禁止されていた肉食妻帯を許しまし た。その代わりに、近親者の命日には肉食を避けて潔斎し身を清めよう、として「精進日」を定めました。志もなく形骸した平常の禁肉食よりも、たとえ数日で も、まごころと意味をもって禁肉食を行じる方が意義深いと説いたのです。
この風習は現在も各地に残っており、近親者の葬儀の際、四十九日法要が終わるまで喪に服し、肉魚を避けた精進料理だけを食べる地域もあります。地域によってその期間はさまざまです。
ちなみに、喪が開けた日に食べる料理を「精進落とし」といい、それ以降は肉魚を食べてもよく、いわば区切りの料理となります。都市部では葬儀が終わればすぐに精進落としになる場合がほとんどです。

 

・黄檗宗と普茶料理
禅宗の一派である黄檗宗では、「普茶料理(ふちゃりょうり)」という独特の精進料理を今に伝えています。黄檗宗は、インゲン豆をわが国に伝えたことでも有名な隠元禅師を開祖とします。
他の宗派と違い、中国人である隠元禅師が弟子を引き連れて日本に渡来したことによって開創されたため、中国の作法をそのまま行っているのが特徴です。法要の作法やお経などが中国式なだけではなく、食事についても同様です。
中国では精進料理を「素菜(ツアサイ)」といいますが、黄檗宗の精進料理、すなわち「普茶料理」では調理法や献立名なども中国語読みそのままが多く、作法 も中国式です。現在の中華料理のように、一つのテーブルを何人かで囲み、大皿に盛られた料理を分け合って食べます。また炒めや揚げのように油を上手に使っ た調理法が特徴です。中国で発展した「もどき料理」も多く用いられ、野菜や豆腐を使ってウナギの蒲焼きやチクワ、鳥の丸焼きなどに見た目も食感も似せた珍 しい料理が作られます。
そうした異国情緒あふれる普茶料理は、一般民衆に受け入れられ、江戸時代には『普茶料理抄』などの専門書も著されました。
○曹洞宗の精進料理
こうして各宗派独自の精進料理に対する考えが生まれる中、曹洞宗の道元禅師は、わが国の精進料理発展に非常に大きな影響を与えました。道元禅師は、お釈迦様正伝の仏法を標榜し、真実の仏法は日常の中にこそある、と説きました。


すなわち、洗面、入浴、排便などの日常行為をはじめ、伽藍の掃除や草むしり、畑仕事などの労働も、すべて仏の行いであり尊い修行であると説きました。中国禅の作務の思想を継承してわが国にもたらしたのです。
中でも、毎日の暮らしに欠かせない食事については特に重視し、『典座教訓』『赴粥飯法』などを記して、食事の尊さを説きました。そのため曹洞宗の道場で は、その教えに従って雲水自らが修行として調理を行うようになり、以来760年以上に渡り禅寺の台所では食材を生かし、無駄を出さない工夫と技が培われて きたのです。

もともと、寺院には一流の知識層が集い、また積極的に大陸と交流を持ち、当時最先端の学問と文化を取り入れていました。僧が大陸に留学する際、学問と共 に最新の調理法や献立などを持ち帰ったこともあり、寺は食文化の発信地でもありました。特に、「調理を仏道修行として行う」ことを説いた曹洞宗では、熱心 に調理技術の研究や工夫が行われ、その技術は和食や茶道などにも大きな影響を与えたといわれます。
安土桃山時代に茶の湯を創始した千利休は、茶と禅のこころに通じるものを見出し、茶会において精進料理の影響を受けた「懐石料理」を出すようになりました。その名は、かつて僧が飢えをしのぐため、暖めた石を懐に抱いたことに由来します。
こうして、鎌倉時代ころから、わが国独自の精進料理の思想が生まれ、長い歴史の中で発展をとげることとなりました。

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